【横浜を変えた男】中畑清が残した2つのもの。

横浜を変えた男、中畑清。

今回は彼が「横浜DeNAベイスターズ」に残したものについて迫っていきたい。

 

低空飛行を続ける横浜が、2011年DeNA初代監督に中畑清を指名。

2005年に3位でシーズンを終え、翌年は最下位に沈むも2007年は4位と健闘。しかし、2008年からの横浜は本当に苦しいシーズンの連続だった。

2008年は内川が打率.378・村田が3割40本塁打以上・吉村が30本塁打以上という強烈なクリーンナップを誇りながら、投手陣は壊滅的で、結局勝率は.338。内川の打率を下回ってしまう悲惨さであった。この年から3年連続で負け越しが40以上、2011年も負け越し39。コーチ、監督は毎年のように入れ替わり、もはやファンが離れていってしまうことも不思議ではなかった。

その状況の中で2011年、これまで「横浜ベイスターズ」という名称であった球団が、「横浜DeNAベイスターズ」と変更することになった。その新しいベイスターズの舵取りを任されたのが中畑清であった。

中畑は就任会見で「おれで大丈夫かという気持ちはある。ただ、前進あるのみ」と言葉を残したが、チーム再建は遥かに高い壁であることを覚悟したうえでの発言だったのだろう。

 

就任初年度は断トツ最下位。だが着実にチームに光を照らしだす中畑清。

彼がチームにもたらしたもの、それは「明るさ」だった。とにかく雰囲気が暗い、覇気がない、そう言われ続けてきたチームを一から変えようと、中畑は尽力した。たとえ大差で負けようと、負け越しが増えようと、必死に前を向き続けた。

就任初年度は前年同様、ダントツ最下位。しかし2013年はシーズンを5位で終え、6年ぶりに最下位を脱出。あるときは10-3からの逆転劇、別の日には8-1からの逆転劇など、諦めない姿勢も顕著に見え始め、確実にチームが変わり始めた。その象徴と言える選手がいる。今や主力に成長した、梶谷隆幸・筒香嘉智の2人である。中畑はこの2人を、たとえ監督自身が、そしてこの2人がバッシングを浴びようとも我慢強く起用した。

今でこそ主力の2人だが、当然初めは苦労した。とりわけ、梶谷は守備でのエラーも多く、2012年は打率も2割を切る程の成績でシーズンを終えることになり、打てない守れないの烙印を押されることも少なくなかった。梶谷自身も、当時はグラウンドに立つことが嫌だったと振り返る程だった。翌年もシーズン序盤は苦しむが、8月には1か月で8本塁打を放つなど活躍。今や欠かせない存在となった。

筒香は2010年、元阪神の久保田から初本塁打を記録し、長打力を期待されたものの、三振も数多く1試合5三振を記録するなど、安定感に欠ける部分が存在した。またある年には、春季キャンプのメンバーから外されることもあった。ここに中畑の厳しさが見て取れるだろう。

「打率2割1分でクリーンアップみたいな顔をしてふざけるな」

あくまで私の想像だが、この言葉が筒香の野球人生を変えた言葉だと私は考えている。調子が悪くても試合に出させてもらえる、おそらくこの気持ちが当時の筒香にはあったのではないか。その気持ちを一掃させる一言だった。

中畑清がベイスターズに残したもの。

2015年、前半戦を首位で折り返すも、シーズンを最下位で終えたベイスターズ。中畑はこの年限りで監督を退任した。結果としてAクラスに導くことはできなかったが、彼が残したものは2つある。

1つ目は、「雰囲気」だ。覇気がない、悪い言い方をすれば、やる気があるのかとすら言われてしまうようなチームを、厳しい姿勢を忘れずに改革した。

2つ目は、「諦めない気持ち」である。どれだけ点差がついても諦めず、粘り強く野球をする。この姿勢に、ファンが心を揺さぶられた。中畑自身が持つ明るいキャラクター、そしてDeNAの粘り強いファンサービスは功を奏し、観客動員数は大幅に増加した。昨年はラミレス監督の下、球団史上初めてクライマックスシリーズに進出。これからますます横浜は盛り上がるはずだ。

その土台を作り上げたのは、紛れもなく中畑だ。横浜はもちろん、野球界全体を盛り上げようとした彼の姿勢は、監督誰もが目指すべきモデルとして、これからも語り継がれるだろう。

現在は野球解説者として、雄弁さを発揮している中畑清。監督を退いたとはいえ、まだまだ野球界を盛り上げてくれるだろう。

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